社会と規範

(1) 社会が社会として成立するためには、その構成員の大多数において一定の標準的な価値に同調した行為がなされる必要がある。そして、人は行為を通じて意味を実現するものであるから、行為には常に意味の選択という問題が生じる。そこで、個々の行為からなる全体の社会が社会としての統一的な姿を維持するためには、選択可能な意味の領域と選択が禁止される意味の領域とを明示し、その境界を設定する必要が生じる。行為の意味的選択にあたって、このように選択が許される領域と選択が禁じられる領域の境界のことを一般に規範といってよいだろう。

法も規範の一つであるが、法というものがわれわれの社会生活において独特の意味的空間を形成していることは経験的に理解されるだろう。たとえば街に出れば道路上にさまざまな模様が描かれ、さまざまな標識が立てられている。それぞれの記号には道路交通法に従って特定の意味が付与されており、われわれは道路上に設定されている記号の意味を読み取って、その意味するところに従って車を移動させたりするのである。一方通行を逆進するように、当該記号の意味するところに従わないことは物理的にはあくまでも可能であるが、その記号の意味するところに従わない場合にはさまざまな不利益が現実のものとなる。法とは言葉であるが、このような意味でその言葉には現実的な「力」が付与されているのである。

(2) 法の言葉は、一般に現実をそのまま記述しようとするものではない。「死」や「物」という概念にしても、一般の社会における用語法といささかかいり乖離していることは、法の学習が進むにつれて理解されることであろう。法は行為の無限集合であり、無限集合であることによって法が柔軟に機能するのであるが、そのためには法の言葉と現実との間に一定の次元的な隔たりが必要なのである。さらに、法の言葉の中には「〜すべきである」とか「〜してはならない」という用法が頻繁に出てくる。このような言葉は、現実とは異なる社会や行為の「あるべき」状態を基準にした言葉であるから、対象をそのまま記述しようとする言葉ではない。そして、法は「あるべき社会(あるいは行為)」の状態を記述するものであるから、社会規範の一つに位置づけられる。

社会規範は、たとえば「自分は1日に30分ジョギングをすべきである」というルールと違って、個々人にとって外在的でありかつ社会性を有している。たとえば売買や投票といった行為、あるいは挨拶といった行為すらも、それらの行為がそのようなものとして成立するためには、まずそれらの行為が社会的に意味づけされ、制度化されていることが必要である。そして、さらに何よりも当事者たちがそれぞれ売買や投票、挨拶を行っているのだという意識でなされなければ全く意味がない。このような意味で、社会規範は個人を超越して社会性を有するのであり、しかも個人に内面化されることが不可欠なものなのである。

(3) このように規範によって社会はその秩序と同一性を維持するのであるが、社会の構成員すべてが規範を内面化し、いかなる状況においても規範に同調した行動をとるわけではない。そこで、社会の構成員の行動を一定の基本的な諸価値に向かって統制(コントロール)する必要が生じる。統制のための手段としては、習慣や道徳、民事的手段から行政的手段などさまざまな段階が考えられるが、中でも最も強烈でかつ直接的なものが、刑法による行動の統制である。刑法は、その違反に対して死刑や懲役刑などの最も厳しい社会的制裁を予定しているからである。

ところが、刑罰による統制が最も効果的であるためには、社会侵害的態度を「犯罪」とする国家の行為が、一般の人びとの法意識によって支持される必要がある。国民の支持を失った処罰は、国家の自己満足でしかありえない。そこで、当該行為が形式的に刑法の条文に該当するということを確認するだけでは不十分なのであって、一般の人びとが「犯罪」という言葉で想起するイメージにその行為が合致することが要求されるのである。

法がコンセンサスの所産、正常性の規格であるならば、犯罪とはその規格からの逸脱である。なによりも均質であることに最大の価値を認める社会にあっては、犯罪を異常と断定することが重要であり、異常と断定されたものに対する排外のシステムが作動しなければならないのである。犯罪はセンセーショナルな事件であり、マスコミは犯罪を報道し続ける。かくして犯人に対してさまざまなマイナスの評価が下され、犯された犯罪行為が解読され、犯罪行為がイメージ化されていくのである。