表現への過剰介入防げ
児童を対象とした性的な表現物に対する従来からの取締まり規定としては、刑法一七五条のわいせつ物頒布等の罪がある。しかし、判例では、「就学を間近に控えた年齢と認められる女児」の「陰部付近をことさら強調した写真」をわいせつ図画と認定したもの(東京高判昭和五六年一二月一七日高刑集三四巻四号四四四頁)があるものの、「わいせつ」が「いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」と定義されているために、児童を被写体としたポルノグラフィーが必ずしも「わいせつ」と判断されるわけではなく、処罰対象に取り込まれるとは限らなかった。
「表現の自由」で論じにくい要素
いわゆる児童買春・児童ポルノ処罰法案は、児童に対する性的虐待・性的搾取から児童の権利・利益を保護することを目的としたものであり(同法案一条)、性風俗を保護法益とする従来の議論とは異なる出発点に立脚している。わいせつ図画等の取り締まりについては、表現の自由との関連で困難な問題があるが、児童ポルノの場合には、その製作過程に児童が関与させられていることから、成人のポルノと比較してかなり異質な要素が認められる。児童ポルノを表現の自由との対抗関係で議論しにくいのはこのためである。法案の出発点が全体に貫徹されているかは十分に検証されなければならないが、児童に対するこの種の行為が国際的な問題となっている折から、わが国でもこのような行為の禁圧に向けての第一歩が踏み出されたことは、積極的に評価すべきだと思う。
性に対する刑事規制を考える場合、第一に、刑罰によって保護される利益(法益)は何であり、それに対する侵害行為が明確に規定されているかどうか、第二に、その法益を守るために刑罰を用いることが適切かどうか、といった点を十分に検討する必要がある。法案は、性的搾取性的虐待からの児童の権利・利益の保護を目指したものであるが、児童ポルノについては表現物に対する規制でもあるので、これらの点の検証が慎重になされる必要があるだろう。
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人には性欲がある。これは否定できない出発点である。また、人の性癖はさまざまであるから、何に性的興奮を覚えるのかもさまざまである。しかも、道徳的・宗教的あるいは教育的な問題は別として、個人が抱くその性的イメージがたとえ背徳的・犯罪的なものであっても、それが個人の内面的世界にとどまる限り、それは法的には自由であり、国家は個人に対して好ましくない性的イメージをもつことを禁止することなどできない。子供に対して性的興奮を覚える者がいても、それがたんに個人の内的世界の出来事にとどまるならば、基本的に法の関心事ではありえない。それは、法と道徳のしゅん別を説く近代法の根本原理でもあるが、そもそも個人がどのような性をイメージしているかを確認する術が存在しないのである。ところがそこに特定の性的イメージを喚起させる道具としてポルノグラフィーが登場すると、問題が一挙に複雑化してくる。まず、ポルノによって特定の性的イメージを抱いていたということが、間接的に証明されることになる。児童ポルノを所持していたという事実から、児童を性的対象としてイメージし、そのことによって性的興奮を覚えていることが証明されうる。少なくともわれわれの社会では、一定年齢以下の児童を現実の性的行為の対象とすることについては刑法や児童福祉法などによってさまざまな犯罪としての否定的評価が下される。児童ポルノはそのような犯罪的・背徳的なイメージを流布するものとされる。次に、児童ポルノの存在によって、現実に子供に対して性的な虐待が行われたということが証明される。性的虐待を記録し、配給することは、被写体とされた児童に対する半永久的な虐待となり続ける。被害者となった当該児童に対する侵害の大きさははかりしれない。
児童ポルノについてどのような観点から規制の体系を組み立てるのかによって、具体的な規制のあり方が大きく異なってくる。法案の基本的なスタンスは、個々の児童に対する現実的な性的搾取・性的虐待の禁止である。社会的に糾弾されるべき悪しき思想の禁圧ではなく、現実の具体的な児童個々人に対する被害を中心におく、法案のこのような出発点は基本的に妥当であると思われる。そこで、「現実の児童に対する性的虐待」という半径で描かれる円に、法案で構成要件化されている犯罪類型が明確に収まりきれるのかが問題となる。
拡大解釈の恐れある「絵」の規定
児童ポルノについて語るときは、つねにその定義が問題となる。この場合、ポルノじたいについての定義の困難さに加えて、とくに年齢については、各国の道徳的・文化的・宗教的な諸事情などを背景として非常に複雑な問いとなる。
まず、「児童」を「十八歳に満たない者」(二条一項)とする、法案の年齢設定については議論が必要だ。法案は、児童福祉法やとくに児童の権利に関する条約にこれを合わせたようである。しかし、諸外国では一四歳ないし一六歳で線引きしているケースが多く、一八歳未満という年齢設定は多少高すぎるようにも思われる。この点は、児童ポルノじたいの定義規定の不明確さと相まって、処罰範囲が不必要に拡大されるおそれがある。
現在では生理的な性的成熟年齢と社会的に許容される性的年齢との間にかなりのギャップが生じている。そのギャップをどう埋めるのかが問題となっている。法案は児童買春と児童ポルノとを同一の法律で規制しようとしたために、かなり複雑な構造となっている。性的虐待の記録としての児童ポルノという観点に立つ限り、児童買春と児童ポルノは同一次元の問題として包括できるものではないだろう。児童買春は、性的な成熟年齢と社会的に許容される性的行為とのギャップをどのようにコントロールするのかという問題も含むからである。一六・一七歳の場合、自らの意思で性的行為の相手方になる場合と自らの意思でヌード写真の被写体となる場合とでは、必ずしも同じように論じられるものではないだろう。
児童ポルノはその置かれ方によってもポルノとなりうる。家族のアルバムにある、無邪気に笑った愛くるしい裸の子供の写真も、ポルノ雑誌の中に配置されれば直ちにポルノチックな性格を帯びてくる。その写真が児童ポルノかどうかは、それが配置されている周囲の状況も大きな意味をもつのである。この点が、成人のポルノとの大きな違いとなる。しかし、このような周囲の状況をも含めた児童ポルノの法的定義は不可能に近い。法案(二条三項)では、「性交等に係る児童の姿態」(一号)や「専ら児童の性器又は肛門」(三号)を視覚的に描写したものといったように、事実的な要素を積み上げるいわゆる記述的定義と、「性的好奇心をそそるもの」(二号)といった、評価的・価値的な要素を残したいわゆる規範的定義とが混在している。問題となるのは、後者の規範的定義である。この場合、定義そのものに特定の価値判断が混入してくるために、具体的に何が児童ポルノかは、無数の言葉を尽くしていくら詳細に説明しても不明確であることから逃れられない。二号にいう「性的好奇心をそそる」という表現は、(それはすでに現行の風営法などで使用されており、「性的な感情を著しく刺激する」という意味に解釈されているが)一八歳未満という年齢の高さと合わせて考えると、犯罪とされるべき行為を明確に輪郭づけることができるかは疑問である。たとえば、一六・一七歳のアイドル少女が自らを売り出すために、セミヌード写真集を出版するような場合、それに関与した者はその少女を虐待した記録物を製造・配給したものとして処罰の対象とされうるだろう。
写真は、生きた人間の描写である。児童ポルノでも生身の子供が被写体となる。たとえそれが演技であったとしても、撮影の際に子供に対する性的暴力がなされたことは間違いない。何よりもこの点が、児童ポルノを正当化できない点となる。ところが、絵やコンピュータで作成された児童ポルノでは事情が異なる。そこには被写体としての生身の子供は存在しないからである。そこで表現されているものは、児童を性的な対象とする「性癖」そのものなのである。被写体が実在するケースとこれらは区別して考えなければならない。
法案は、二条三項で「写真、絵、ビデオテープその他の物」を児童ポルノの媒体とする。この「絵」に引っかかりを覚える。まずはいわゆるポルノコミックなどが念頭に浮かぶが、性的に虐待された児童の記録という、法案の前提に忠実に従うならば、「現実に虐待された児童を描写したもの(似顔絵・デッサンなど)」として解釈されなければならない。しかし、そのように限定的に解釈すべき根拠は弱く(「十八歳未満の者」という文言のみである)、たとえばどこの誰とは特定できないが、ランドセルを背負った女児との性行為をリアルに描いたようなイラスト類が含まれる可能性は完全に否定できるのであろうか。現実の性的虐待の現場を記録する手段としては、ほとんどが写真やビデオであるだろうから、ことさら「絵」を含める必要性は少ない。明確化という点からいえば、「絵」は削除すべきだと思う。 さらにコンピュータによって合成された(擬似)児童ポルノ(子供の顔を成人女性の下半身と合成したもの)や成人女性を使った(擬態)児童ポルノ(成人女性にセーラー服を着せたものなど)も現実に虐待された児童は存在しないために、法案の規制対象となりえない。しかし、将来にわたってそのような解釈が維持されるという保証もない。そのようなものを除外する趣旨ならば、その旨を明記すべきだろう。
単純所持禁止は個人の自由への介入にも
現在、少なくとも成人女性のポルノを単に製造することや単純に所持することについては、刑法は個人の自由として規制の外に置いている。処罰の対象とされているのは、ポルノ(わいせつ図画)の頒布・販売・公然陳列・販売目的所持のみである。また、関税定率法二一条一項三号では、わいせつ図画等の「輸入」も禁じられている。法案では、児童ポルノの「頒布・販売・業としての貸与・公然陳列」に加えて、これらを目的とした「製造・所持・運搬・輸入・輸出」が処罰の対象とされており、禁止される行為の範囲がわいせつ図画に比較してかなり広範なものとなっているのが目を引く。刑法で窃盗罪よりも盗品の運搬・故買等が重く処罰されているように、児童の性的虐待の防止を徹底するならば、製造とその他の行為を区別し、後者をより重く処罰する方向も考えられてもよいだろう。 児童ポルノの単純所持については、禁止が宣言されたのみで、罰則は見送られた(八条)。現実に性的虐待を受けた児童の記録物が広く頒布・販売・陳列される場合に比較して、密かに個人的に所蔵される場合は、被写体とされた当該児童に対する侵害は抽象的な程度にとどまるので、この点は評価できると思う。しかし、法案の立場からあえて単純所持の禁止を宣言するだけの積極的な根拠があるかは疑問である。法案での児童ポルノの定義に不明確な部分が残るならば、単純所持を禁止する条項は個人の自由に対する過度の介入となる部分もあるだろう。
なお、インターネットで流通する児童ポルノ(サイバーポルノ)については、法案に明確な規定は存在しない。特別な規定がなくとも対応可能という趣旨であろうが、実態は情報であるサイバーポルノが、有体物の授受を前提とした「頒布・販売等」の概念で問題なく捕捉できるかについては、罪刑法定主義から疑問もある。サイバーポルノまで射程を広げるならば、電磁的記録についての特別規定を設ける必要があるだろう(なお風営法改正との絡みも問題となるが、割愛する)。
「記事掲載禁止」規定の意味考えよ
今回の法案の背景には、児童ポルノ規制が無きに等しかった日本が世界の児童ポルノ生産国になっていたという事情があった。規制を求める国際世論にようやく日本も動き出した。しかし、(一部の立法例のように)児童ポルノという表現物一般を覚せい剤や麻薬と同じような禁制品とし、背徳的な性癖を刑罰によって非難することは、別の意味で危険なことなのである。性というきわめてセンシティヴな個人領域に法が介入する以上、(性表現をも含めて)法で規制すべき性とはいったい何なのかについての基本的な議論を避けるわけにはいかない。児童ポルノが表現の自由との対抗関係に立ちにくいという点は理解できるが、児童の虐待防止という誰もが反対できない理由での過剰介入をチェックすることこそが、マスコミに求められているのではないか。たとえば一三条では、被害児童の氏名・年齢・住居・容ぼう等、「当該事件に係る者であることを推知できるような事項を、新聞紙その他の出版物に掲載し、若しくは放送し、又はみだりにその情報を他に提供してはならない。」との規定がある。あまりにも当然すぎることではないか。このような規定があえて置かれるということは、児童ポルノについてのマスコミの見識も問われているということではないのだろうか。