日本の論点

刑法の言葉には、少しだけ広がりがもたせてある。言葉に幅があれば、社会が変化しても刑法は柔軟に機能することができる。ところが言葉には国語的な制約があるから、刑法が想定していた社会像と現実との隔たりがあまりにも大きくなるとき、刑法がうまく機能しえないという事態が生じる。わいせつでは、いつもこれが問題となってきた。わいせつは、時代によって変化するだけではなく、他のどんな情報よりも鋭敏にメディアを乗り換えてきたからである。フィルム、ビデオ、ダイヤルQ2、わいせつが技巧を凝らすたびに、刑法175条の適用が問題となってきたのであった。

インターネットでは、情報が国境を越えて地球的規模で分散・共有される。わいせつもダイレクトに流通する。税関で摘発されるポルノも、国際回線を流れる情報としてならば遮断することはできない。このような情報の流れを、国内法である刑法によって規制することができるのだろうか。

わいせつ物を国外で陳列する行為は、刑法に国外犯処罰の規定が存在せず不処罰であるから、海外のサーバーに国内からわいせつ情報をアップロードすることも処罰されないだろう。わいせつ物の単なる所持が不処罰であるように、海外のわいせつ画像を国内で単純にダウンロードすることも処罰されない。インターネットでは国外のわいせつ情報であっても、国内にあるのと変わりがない。日本で自由に入手できる国外のわいせつ情報が刑法的規制の外にあり、同じわいせつ情報を国内のサーバーにアップロードした場合にそれが処罰されるということについては、合理的な説明を行うことは難しい。

すでにわが国の裁判所においてわいせつと判断されたものと内容において同等か、あるいはそれ以上にわいせつ性の強い情報が、インターネットを通じて海外から容易に入手可能であったし、現在も入手可能である。わいせつの判断は、当然国によって異なる。国内法の解釈として、外国の基準をストレートに刑法に採用することは妥当ではない。しかし、インターネットを通じてその種の画像がすでに無数に日本国内に存在しているという事情は、一般国民のわいせつに対する考え方に大きな影響を与える可能性のあることを推測させるものである。

1 わいせつ画像は、まずコンピュータによる画像処理をへてデジタル化される。インターネットには、このオリジナルデータと判別不可能なコピーがアップロードされる。そして、不特定多数がそのアップロードされたデジタル情報を各自のマシンにダウンロードし、ディスプレイに再生・表示する。ここで伝達されているものは、まさにわいせつ情報そのものである。ところが、「わいせつ情報」がストレートに刑法175条の「わいせつの文書、図画その他の物」に当たる、と明言した裁判例は実は見当たらない。

デジタルなわいせつ情報という意味では、ダイヤルQ2を扱った大阪地裁平成3年12月2日の判決が参考になる。本件では、カセットテープのわいせつな音声が「録音再生機」にデジタル情報として記録され、ダイヤルQ2の利用者にそのデジタル情報を再生した音声が流されていたのであった。カセットテープは直接再生されていない。大阪地裁は、「従って、公然陳列されたか否かが問題となるのは、カセットテープそのものではなく、一旦デジタル信号としてわいせつな音声を記憶させた録音再生機である」とした上で、本件録音再生機を「わいせつ物」と認定し、これをダイヤルQ2を通じて不特定多数に対して再生可能な状態に置くことが公然陳列に当たるとしたのであった。

わいせつな音声を録音したテープが「わいせつ物」(物の形状は問題とされない)となることは、すでにいくつかの裁判例において確認されている。ダイヤルQ2を情報という観点からとらえるならば、カセットテープも録音再生機も意味的な情報としては同一であるから、カセットテープを「わいせつ物」とし、それが再生されたとすることに妨げはない。しかし、大阪地裁は、現実にわいせつ情報を再生した「物」が「わいせつ物」であるとした。これは、「わいせつな文書、図画その他の物」が「有体物」であることを暗黙の前提としてきた、裁判所の伝統的な発想なのである(ただし、大阪地裁が聴覚に訴えることを「陳列」とした問題は残る)。

判例によれば、ポルノフィルムを映写することは「陳列」に当たる。ただし、陳列されたものはスクリーンの映像ではなく、フィルムである。フィルムの陳列手段として映写が行われた。一時的な映像は「図画」ではない。わいせつな行為がフィルムという媒体に固定されてはじめて、その媒体が「わいせつ物」となる。学説も一般にこのように考えている。「陳列」とは対象の内容を知ることができるようにすることであるから、わいせつデータをディスプレイに表示させることも、その限りでは「陳列」といってよい。しかし、刑法175条が「陳列」される対象を有体物に限定しているならば、「陳列」の意味も制限的に解釈せざるをえない(「頒布」「販売」についても同じ)。

2 右のような論理は、インターネットのわいせつ情報にも妥当するのだろうか。

物の形状が問題でないならば、わいせつ情報を記録しているコンピュータが「わいせつ物」となるだろう。大型コンピュータにわずかなわいせつデータがあれば、その記憶装置全体が「わいせつ物」なのだろうか。また、インターネットのリンク機能によってデータが各サーバーにおいて共有されることもあるから、この場合は特定のわいせつ情報にリンクを張ったインターネット上に点在する各サーバーがすべて「わいせつ物」ということになる。「わいせつ物」という言葉をそのような文脈において使用することは、これまでの判例からも、一般の常識的な用語法からも外れることになるだろう。性器を形どった巨大な彫刻のようなものがあったとすれば、それを「わいせつ物」と呼ぶことは構わないが、物の形状を問題としないならば物理的な限界を考えることは難しい。極論すれば、地球上にわいせつと表現できるものがある限り、地球そのものが「わいせつ物」なのである。

情報は物質のパターンによって記録されるが、それは物ではない。刑法175条は、物に対する規制の体系である。そのため刑法は、わいせつ情報を物と一体化させて規制せざるをえない。ところがインターネットとはコンピュータが縦横に接続されている「状態」であり、そこを情報が駆けめぐるのであるから、物に基礎をおいた刑法における情報のとらえ方ではどうしても無理が生ずる。インターネットは、刑法175条の手の届かないメディアなのである。