日本の論点

1 はじめに

 インターネットは、冷戦時代、アメリカが部分的な核攻撃を受けても国家というシステムが全体として生き残れるようにと、情報資源の分散・共有とコンピュータ・ネットワーク全体の安定性を目的として開発されたといわれている。しかし、それが政府機関や軍、大学などの閉ざされたネットワークから一般社会へと解放され、しかも地球的規模でのコンピュータ・ネットワークへと発展したことから、さまざまな問題が噴出するにいたっている。  「情報」というものが得体の知れない魔力をもつにいたった現代社会。一対一(電話)や一対多(マスコミ)の従来型メディアでは実現できなかった、多対多の情報発信が可能となったサイバー空間では、情報の伝達という当然の日常的行為が、現実社会に思わぬインパクトを与えるようになっている。また、国境を越えて情報が流通することにより、思想や倫理など、個々人の価値観が他の文化とダイレクトに交わる事態となった。さまざまな局面で一国の法解釈とインターネットとの確執が生じている。本稿では、実際の事件をもとに、三つのケースについてインターネットとわいせつ情報の問題を考えてみたい。

2 浮遊するわいせつ情報

【事例1】Aは、国内のインターネット・プロバイダXとインターネット接続の契約をし、Xの設置したサイトにわいせつなホームページを開設し、わいせつな画像をアップロードして公開した。

  これは、SFである。  二一世紀、各家庭に汎用性を有する「物質分析再現マシン」が普及する。この機械の登場によって、世界の物流に革命がもたらされた。たとえば、宅配ピザが消えた。自宅に設置されたマシンを、電話回線を通じてイタリアのとあるピザ屋に接続する。デイスプレイには、ピザ屋のメニューが表示される。ユーザーは、選択したレシピに従って材料をマシンに放り込む。強力粉六〇〇グラム、ドライイースト二包、塩・オリーブオイル少々、モツァレラチーズたっぷり・・・・。ボタンをクリックすれば、そのピザの分析データとレシピがユーザーのマシンにダウンロードされ、三〇分以内に注文したピザが「再現」される。本物に限りなく近い「本物」が届けられる。  例によってこのマシンの普及の陰には、わいせつがあった。ポルノビデオ制作業者が、ポルノ女優に似せたきわめてリアルな人形を制作し、それをこのシステムを通じて「頒布」したのである。ユーザーの中には親に隠れてこれを入手する青少年もいて、大きな社会問題となった。いくつかの業者が摘発されたが、裁判所はいずれも無罪とせざるをえなかった。その人形を刑法一七五条の「わいせつ物」と認定することにはそれほど問題はない。しかし、過去に客の持参した生テープにわいせつビデオを有料でダビングした事案で、それ自体は販売目的のなかったマスターテープについて間接的な販売目的があったとして販売目的所持罪を認めた裁判例(富山地判平成二年四月一三日判時一三四三号一六〇頁、東京地判平成四年五月一二日判タ八〇〇号二七二頁、他に大阪地判堺支部昭和五四年六月二二日判時九七〇号一七三頁)があったものの、業者の制作した人形そのものが「頒布」されたとすることには解釈上かなりの無理があったからである。刑法改正が問題となり、刑法一七五条の二として「わいせつな物を再現させる目的で、そのわいせつな物を分析して得られたデジタル情報を伝送した者も、前条と同様とする。」との一条が追加され、ようやくこの問題に関する解釈学的な問題点に終止符が打たれた。しかし、・・・・。  右の話はあくまでも空想の域を出ない。ところが、印刷物については、これと同じことがすでに現実のものとなっている。つまり、こうである。  まず、ポルノグラフィをスキャナ(画像読取装置)にかけて、わいせつな画像をデジタル化する。次に、そのデジタル化されたわいせつ画像データを電話回線を通じてホームページにアップロードする(サイバーポルノ)。ユーザーがそのホームページにアクセスする。すると、その画像データはユーザーのパソコンのキャッシュに取り込まれ、それがデイスプレイに表示される。インターネットの画像データはブラウザによって自動的に一定期間キャッシュファイルとしてユーザーのハードデイスクに保存されるから、電話回線を切断しても何度でも表示することができる。さらに、それをカラープリンタでプリントアウトすれば、元のポルノグラフィに限りなく近い「写真」が再現される。

  サイバーポルノに関しては、すでにいくつかの裁判例がみられる(1.横浜地裁川崎支部平成七年七月一四日判決、2.京都簡裁平成七年一一月二一日略式命令、3.東京地裁平成八年四月二二日判決、4.札幌地裁平成八年六月二七日判決、いずれも公刊物未登載)。自ら管理運営するパソコン通信のホスト・コンピュータ内にわいせつ画像データをアップロードしたもの(1.2.4.)と、インターネット・プロバイダ(接続業者)のサーバー・コンピュータ内に設けられた自己のホームページにわいせつ画像データをアップロードしたもの(3.)である。いずれについても、裁判所は刑法一七五条の成立を肯定している。しかし、わいせつ情報がなぜ刑法一七五条における「わいせつ図画」とされるのか、あるいはわいせつ情報を記録しているコンピュータ(ハードディスク)がなぜ「わいせつ物」とされるのかについては、いずれも積極的な論拠が提示されていない。

 従来の判例に従えば、わいせつな行為がフィルムやビデオなどの媒体に固定されてはじめて、その媒体自体が「わいせつ図画(物)」となる。したがって、わいせつフィルムの映写やポルノビデオの再生は「わいせつ図画の陳列」にあたる。ただし、陳列されたものはスクリーンやブラウン管に映し出された「映像」ではなく、物としての「(わいせつ)フィルム」や「(ポルノ)ビデオ」である。わいせつ物の陳列手段として、映写や再生という行為が行われた。一時的な映像(画像)は「図画」ではない。おそらく、学説においてもこのような考えが一般的であると思われる。また、わいせつ情報という観点からは、ダイヤルQ2を扱った大阪地判平成三年一二月二日(判時一四一一号一二八頁)が参考になる。本件では、わいせつな音声を録音したテープがさらにデジタル化され、それが「録音再生機」を通じて流された。音声が問題となっているものの、「情報」としてはオリジナルとコピーは判別不可能なのであるが、裁判所は、元のテープではなく電話に直結された「物」としての「録音再生機」を陳列された「わいせつ物」と認定したのであった。  このような考え方をインターネットに当てはめると、サイバーポルノが記録されたコンピュータ(ハードディスク)そのものを「わいせつ物(図画)」とせざるをえないであろう。しかし、コンピュータやハードディスクを見て、購買欲ならともかく、性欲を刺激・興奮させられる者はいないだろう。あるいは、判例が、外観はわいせつでなくとも単純な操作でわいせつ性が顕現するものについては、それを「わいせつ図画」としているし、ポルノビデオ(ただしテープ自体)を「わいせつ図画」としていることから、一歩進めてわいせつなデジタル情報そのものが「図画」とされる可能性もあるかもしれない。サイバーポルノもブラウザにかけることによってわいせつ画像としてディスプレイ上に容易に再現可能であるし、デジタルビデオによって撮影されたポルノもデジタル化された情報だからである。しかし、肉眼で直接確認できない電磁的記録を「図画」とすることについては、根本的な疑問がある。電磁的記録については刑法7条の2で包括的に規定されており、刑法一七五条は「物(物質化されたわいせつ情報)」に対する規制であるとするのが従来からの一致した理解だからである。同条前段の並列的表現、後段の「所持」という文言から判断しても(フロッピィディスクを所持することはできるが、電気信号それ自体を所持することはできない)、「図画」に電磁的記録を含めて解釈することは無理である。

  人は、情報を記録し他者に伝達するために、絵や文字(記号)を生み出し、石や木、紙などの媒体と一体化(物質化)させてきた。その場合、情報は物質のパターンによって記録されるが、そのパターンは物ではない。情報と情報が化体した物(媒体)は、峻別されなければならない。なぜなら、かつては物を離れて情報を記録することは人の脳以外では不可能であったが、科学技術は物と一体化しない情報の記録・伝達を可能としたからである。インターネットは、その一つの極致である。思想であれ数値データであれ、あるいはわいせつであれ、およそデジタル化された情報は瞬時にネット空間を流れ、相手のディスプレイに有意味な情報として表示されるその直前までは、すべて単なる電気信号として非物質的に貯蔵されているにすぎない。物に依存しない情報の記録・流通。サイバーポルノの特殊性もまさにこの点に認められる。つまり、インターネットではサーバーのわいせつなデータがダイレクトにユーザーのディスプレイに表示されるのではなく、通常はユーザーによってダウンロードされたキャッシュファイルとしてのデータが表示される。情報がいったんサーバーからユーザーの元に伝達され、そのハードディスク内の情報が画像として表示されるのである。この点が、テレビやビデオでわいせつな映像を流す場合との決定的な相違点である。現行刑法一七五条は、サイバー空間を浮遊するわいせつ情報を捕らえることができるのだろうか。Aの行為に対する適用条文は、存在するのであろうか。

3 リゾーム空間のわいせつ情報

【事例2】Bは、自ら開設したホームページの中に、国内外のわいせつなホームページへのリンク集を書込み、それを公開した。

  従来、電子化された情報といえば、文字情報やコンピュータ・プログラムなどが中心であった。しかし、インターネット上のコンピュータ言語としてHTMLという言語(ハイパーテキスト)が開発されたことによって、文字情報に加えて音や画像データ(静止画像・動画像)をもディスプレイ上に自由にレイアウトすることが可能となった。この言語を用いたインターネット・サーバーが、WWWサーバーと呼ばれる。HTMLによって記述されたホームページは、WWWの階層・連関構造を使って世界中の任意のサーバーにリンク可能である。  ハイパーテキストにおけるこの「リンク機能」こそは、インターネットそのものである。ただ、それを文字で説明することはきわめて難しい。通常の書物であれば、シーケンシャルに情報が前から後ろへと固定的に配置されていて、読者はそれをたどっていくことによって、情報を一つのまとまりとして受け取る(ツリー(樹木)型)。ハイパーテキストでは、文中の特定の単語ないし画像をクリックすれば、その意味やそれに関連する文章・画像・音声などがさまざまに表示される。いわば木の根のように複雑にテキストが絡み合った情報空間がそこに創出される(リゾーム(根茎)型)。インターネットにおいてはリンクによる各情報の結合は原則として自由であるから、サイバー空間は無秩序にどんどん自己増殖していくのである。

  自らのホームページから他のサーバーに記録されているわいせつ情報をリンクする場合、ホームページにそのURLを指示・参照するコマンドを埋め込むだけでよい。ユーザーにとっては、あたかもそのホームページに直接わいせつ画像が掲げられているかのように見える。具体的には、こうである。

 今、「aaa」というホームページから、アメリカの「bbb」というサイトの中にあるわいせつな「xxx」というホームページにリンクを張るとする。「リンクを張る」というと、何か物理的に特別な設定を行なうかのように誤解されるおそれがあるが、「aaa」のHTML文書(ホームページの元になるテキスト文書)の中に次のようなコマンド(タグ)をエディタ(ワープロ)で書き込むだけのことである。  xxxのホームページ  これをブラウザで見た場合、「aaa」の画面上には単に「xxxのホームページ」とだけ表示される。ユーザーが、その個所をマウスでクリックする。すると、「aaa」へのアクセスが切断され、「xxx」へのアクセスが開始される。次の瞬間にはユーザーの画面に「xxx」のわいせつなホームページが表示される。これが「リンク」である。  このように、「aaa」のホームページには単に他のホームページのURLを参照するコマンドが埋め込まれたにすぎない。この点は強調すべきで、実はそこには何らわいせつな記述もわいせつな画像も存在しないのである。わいせつなホームページを紹介した雑誌を見ながらそのアドレスを直接入力しても、そこにアクセスできる。「リンクを張る」とは、その手間を省いたにすぎない。リンクを張ることがわいせつならば、アルファベットの羅列にすぎないわいせつなホームページのURLだけを紹介した文書もまたわいせつ文書とされるだろう。しかし、現在の実務的感覚では、他のわいせつ情報にリンクを張っている限り、その元のホームページそのものがわいせつとなると考えられている。一九九六年九月、広島のあるインターネット・プロバイダの社員が、海外のわいせつ画像にリンクを張った会員のホームページを、そのプロバイダのホームページの中の「アクセス・ランキング」にランクインされるかたちでリンクを張ったところ、わいせつ図画公然陳列の容疑で書類送検された(その後、起訴猶予処分)。この事件でもそうだが、インターネットの特性を無視して、立法当初の状況から判断しても紙やその他の有体物の授受を念頭において制定された刑法一七五条を、サイバーポルノに適用しようとするところにかなり無理があるように思われる。Bは、はたして「わいせつ図画」を「陳列」したのであろうか。

4 越境するわいせつ情報

【事例3】Cは、日本国内から、わいせつ規制が緩やかなY国のサーバーに日本語によるホームページを開設し、日本で募った不特定多数の会員に対してわいせつ画像をダウンロードさせるために、日本国内からY国のそのホームページにわいせつな画像データをアップロードした。なお、Cがアップロードした画像は、Y国では合法的なものであった。

  インターネットでは、情報がどこにあろうと問題ではない。サイバーポルノは、国境を越えてネット空間を駆けめぐる。雑誌やビデオといった物を媒体としたポルノならば、税関で遮断することができる。しかし、インターネット上で小さな「パケット」に微分されて、ランダムにさまざまなルートを単なる電気信号として流れるサイバーポルノは、それを国境で遮断することは不可能である。どこかの一国一地域でわいせつ情報を遮断できたとしても、インターネットはそれをシステム障害と認識して、そこを迂回して情報を流すだろう。部分的な核攻撃にも耐えうるようにと考えられたインターネット。「情報鎖国」とでもしない限り、国境を越えた自由な情報流通を、国内で法的にコントロールしようとすることははたして可能なのだろうか。

  刑法は、属地主義を原則とし(刑法一条)、これを補充する形で特定の犯罪に関して保護主義(刑法二条)と積極的属人主義(刑法三条)をとっている。さらに、刑法四条では「公務員の国外犯」として保護主義とともに属人主義がとられ、刑法四条の二では「条約による国外犯」が規定され世界主義がとられている。強姦罪や強制わいせつ罪などについては、日本国民が外国で犯した場合であっても、国民の国外犯としてその者に日本刑法を適用することができるが(刑法三条)、刑法一七五条は国民の国外犯とはされていない。しかし、属地主義では、必ずしも国内で構成要件が完結しなければならないというわけではなく、行為・結果・因果関係のいずれかが国内であればよいと解されている。刑法一七五条は結果犯ではないから、Cの行為の可罰性は、国外のホームページにわいせつ情報をアップロードする行為が刑法一七五条の実行行為の一部と考えられるか否かにかかっている。

  海外在住の日本国民が海外でわいせつなホームページを開設した場合は、そのホームページが日本語で運用されているなど、明らかに日本のユーザーのみを対象としている場合であっても、それを処罰することは難しい。ただし、刑法一七五条が風俗犯であることを強調すれば、行為者が日本国民であるか否かにかかわらず、国外で行われた行為であってもおよそ国内の社会秩序に相当程度の有害な効果を与えるものであれば、なお国内犯として処罰可能であるとの考えもありうる(効果主義)。しかし、特にわいせつ罪については国によって規制基準が異なり、当該行為が外国で必ずしも犯罪とされているとは限らず、かりにそれが犯罪であっても他国の領域内ですべて完結した行為をなお国内犯として原則的に日本刑法の適用を主張することは、相手国の刑事管轄権を不当に侵害するおそれがあるだろう。最高裁も、(販売目的所持罪における「販売」の意義に関して)刑法一七五条の規定は、「わが国における健全な性風俗を維持するため、日本国内において猥せつの文書、図画などが頒布、販売され、又は公然と陳列されることを禁じようとする趣旨に出たものである」とし、「販売の目的」とは国内における販売のみを意味する、とした(最判昭和五二年一二月二二日刑集三一巻七号一一七六頁)。総則の国外犯処罰規定が処罰条件ないし訴訟条件なのか、あるいは国外犯処罰規定の不存在によって刑法一七五条の構成要件が限定的に修正されると考えるべきなのかという点で、本判決の読み方に争いがあるが、最高裁は少なくとも法益論の観点をも加えて、外国での頒布・販売・陳列はわが国の性風俗を害するものではないという限定的な解釈を展開したものと考えられる。

判例および通説的な立場からCの行為を評価すれば、次のように述べることができるだろう。まず、「陳列」とは観覧可能な状態におくことであるから、言葉の一般的な意味においてCはわいせつ画像を陳列したといえる。しかし、刑法的には、わいせつ画像データそのものは刑法一七五条の「図画」とはいえず、Cの「陳列」した「わいせつ図画」は「物」としてのサーバー(コンピュータ)であり、しかもそれは国外に置かれている。画像は国境を越えて国内からも見ることができるが、その点は海外でアップロードされたわいせつ画像と全く同様であり、Cの画像が日本国内の性風俗に有害であるということを可罰性の根拠とすることは難しい。また、ディスプレイに映し出された画像は、スクリーン上の映像と同じく刑法一七五条の「図画」ではない。かりに、各ユーザーによって表示されたディスプレイ上の画像を刑法一七五条の「図画」と考えると、通常は「公然性」が欠如するだろう。また、(一般にアップロード自体は「陳列」のための準備的行為ではないかという疑問もあるが)Cの行ったアップロードによって、結果的にはY国での合法的な「わいせつ図画」の「陳列」がなされている。はたして、Cの行ったアップロード行為は、刑法一七五条の実行行為の一部であるといえるのであろうか。

5 まとめ

 新たなコミュニケーションの手段としてのインターネットは、「革命的」という形容詞とともに論じられることが多い。「革命」の常として、その中には相当過激な部分を含んでいることは確かである。しかし、現象の過激さに目を奪われるあまり、刑法の原則を踏み外すような処罰がなされることがあってはならない。インターネットによって、刑法に大きな風穴が開き始めている。これを謙虚に認識すべきではないだろうか。わいせつは、常にメディアを取り替えて、装いを新たに登場してくる。今こそわいせつの刑法的規制の是非について、根本的に議論すべきであろう。 [参考文献] 亀山継夫「外国で販売する目的でのわいせつ物所持」研修三五五号六五頁 園田寿「メディアの変貌――わいせつ罪の新たな局面――」(『中山研一先生古希祝賀論文集第四巻』一九九七年、成文堂)一六七頁 長谷部恭男「インターネットによるわいせつ画像の発信」法律時報六九巻一号一二三頁 松浦恂「外国における犯罪と刑法の適用」法律のひろば三二巻一一号三八頁 宮澤浩一「刑法一七五条における『販売の目的』の解釈」ジュリスト六五九号八七頁