陳列概念の弛緩―「アルファネット事件」控訴審判決―

陳列概念の弛緩

―「アルファーネット事件」控訴審判決―

関西大学法学部

教授 園田 寿

1 はじめに

 判例および学説の多数は、インターネットのホームページやパソコン通信でわいせつ画像データ(サイバーポルノ)を「見せる」行為を刑法175条における「陳列」行為ととらえている。刑法175条はわいせつを「見せる」ことが犯罪の内容であるから、わいせつが通信回線によってアクセス可能な不特定多数の者によって「見られる」限り、その原因をつくる行為は同条に該当するというのが、単純化すればその理由である。しかし、同条は、わいせつの「見せ方」を交付(有償以外での交付である「頒布」および有償での交付である「販売」)と陳列という2つの行為類型に限定して処罰している。頒布・販売と陳列は同一構成要件内の行為類型とはいえ、同条後段は販売目的ある場合に限っての所持だけを処罰しているのであるから、この両者の区別は重要である。判例・多数説がサイバーポルノの流通をどのような根拠から「陳列」と解するかについては必ずしも自明のことではなく、そこにはなお検討を要する問題がある。この点について、最近、初の高裁判例(「アルファーネット事件控訴審判決」大阪高判平成11年8月26日公刊物未登載)が出されたので、それを紹介し、特に「陳列」概念について若干の検討を加えたいと思う。

2 「アルファーネット事件」控訴審判決

(1)事実の概要

 「アルファーネット事件」の事実の概要は、以下の通りである。

 被告人は、NTT電話回線を利用していわゆるパソコンネットである「アルファーネット」を開設・運営しているものであるが、上記パソコンネットの不特定多数の顧客にわいせつな画像を送信し、再生閲覧させようと企て、わいせつ画像のデータを順次、上記「アルファーネット」のホストコンピューターのハードディスク内に記憶させて、電話回線を使用して、パソコン通信の設備を有する不特定多数の顧客に上記わいせつ画像が閲覧可能な状況を設定し、上記わいせつ画像の情報にアクセスしてきた不特定多数の者に上記データを送信して再生閲覧させたものである。

 このような事実に対し、京都地方裁判所は、次のように判示して、被告人の所為に刑法175条わいせつ物公然陳列罪の成立を認めた(京都地判平成9年9月24日判例時報1638号160頁)[1]。

 ハードディスク内に記憶・蔵置されているわいせつ画像データは、「本件アルファーネットの利用者が被告人のホストコンピューターにアクセスし、右画像データをダウンロードして再生しさえすれば、容易にわいせつ画像を顕出させることができることも証拠上明らかであるから、本件におけるわいせつ物とは、わいせつ画像のデータが記憶・蔵置されている特定の右ハードディスクであると考えることができる。この理は、わいせつな映像が記憶されたビデオテープの場合と同じである」。

 これに対して、弁護人側は、本件で陳列されたとされる「わいせつ物」概念は不明確である、本件の実態は「わいせつ情報の送信」であり、これを「わいせつ物公然陳列」と解した原判決は、「陳列」概念を不当に拡張し、結果的に刑法典に規定のない「わいせつ情報の頒布・販売」を処罰するものであり、罪刑法定主義に違反している、と主張して控訴した(他にホストコンピュータの管理者としての責任についても控訴理由にあげているが、それについては割愛する)。

 以上のような弁護人側の主張に対し、大阪高等裁判所は、弁護人の主張はいずれも理由がないとして控訴を棄却し、次のように判示した。

(2)判旨

 「本件ハードディスク内のわいせつ画像データを閲覧するに当たり、所論が指摘するユーザー側の一連の行為の介在が必要なことは、わいせつな画像や音声が磁気情報として記録されたビデオテープをビデオデッキ及びテレビモニターを使用して、可視的な形ないし音声に変換して再生閲覧する場合に比して、データの抽出方法や使用機器等に差異はあるものの、これと本質的に異なるところはなく、……しかも、ユーザーが、直接閲覧するわいせつ画像は、本件の場合、ユーザー側のパソコンのハードディスクに一旦ダウンロードされ記憶された画像データに基づき、そのパソコン画面に表示されることになるとはいうものの、右ユーザー側パソコンの画像データと本件ハードディスクに記憶・蔵置された画像データとの間には、これらによって表示されるわいせつ画像につき同一性が認められるから、このようなわいせつ画像データが記憶・蔵置された本件ハードディスクが、前記ビデオテープと同様わいせつ物に該当するとした原判決の認定、判断に何ら誤りはな」い。

 「わいせつ物を公然陳列したというためには、これを不特定又は多数の者が閲覧することができる状態に置くことをもって足りるところ、本件において、被告人は、わいせつ画像データをコンピューターのハードディスク内に記憶・蔵置させて、ホストコンピューターの管理機能に組み込み、会員が、電話回線を通じてパソコンにより被告人のホストコンピューターのハードディスクにアクセスしさえすれば、いつでも、容易に右ハードディスク内に記憶・蔵置されたわいせつ画像のデータをダウンロードすることなどにより、右データをわいせつ画像としてパソコンのディスプレイ上に顕現させ、閲覧することが可能な状態を作出し、もってわいせつ画像が社会内に広範に伝播することを可能にし、健全な性風俗が公然と侵害され得る状態を作出したものであるから、被告人が、本件ハードディスクを右のような状態に置き、ホストコンピューターにアクセスしてきた不特定多数の会員に、右データをダウンロードさせて再生閲覧させた所為が、わいせつ物の陳列に該当するとした原判決の認定・判断に誤りはない。なお、弁護人は、弁論で、本件においては、典型的なわいせつ物公然陳列罪の特徴として認められる陳列と観覧の『同地性』や情報伝達の『同時性』がみられないから、同罪は成立しないと主張するが、本件においては、被告人によって前記のとおり健全な性風俗が公然と侵害され得る状態が作出されている以上、陳列という要件は満たされているというべきであって、所論の『同地性』や『同時性』が、同罪成立のための必要不可欠な要件になるものと解することはできない。……

 さらに、所論は、本件ハードディスクにつき電話回線を使用して閲覧可能な状況を設定したことに加え、わいせつ画像の情報にアクセスしてきた不特定多数の会員らに右データを送信して再生閲覧させ、了知させたことを公然陳列の実行行為の一部としてとらえているが、これは、従来、抽象的危険犯として理解されてきたわいせつ物公然陳列罪を、他者の行為が介在する一種の結果犯と構成するもので、同罪に異質な類型を持ち込む矛盾を犯すものである、という。

 しかし、すでに説示したように、本件におけるわいせつ物公然陳列罪が既遂に達した時期は、被告人が、わいせつ画像データを記憶・蔵置させたハードディスクをホストコンピューターの管理機能に取り込み、会員による右データへのアクセスが可能な状態にした時点であると解すべきであり、原判決が、右のアクセス可能な状態に置いたことのみならず、アクセスしてきた不特定多数の者に右データを送信して閲覧させたことも認定、判示しているのは、それが既遂に達するための不可欠な要素であるとして判示したとみるべきではなく、本件において被告人がわいせつ物を公然陳列したという犯行態様を、その犯情にかかわる結果部分を含め、具体的に認定、摘示したに過ぎないとみるのが相当である。したがって、原判決の右認定が、同罪を所論のような結果犯と構成したものとは認められないから、所論はその前提を欠いており失当である」。

3 検討

(1)問題の所在

 情報は、その「乗り物」であるメディア(媒体)によって流通する。流通の前提となる記録のためには紙やフィルムといった物理媒体が不可欠であり、情報が(たとえば紙の上のインクの染みのように)物理媒体に物質のパターンとして固定化されて、その物体の流通によって情報が伝達されてきた。物に依存しない情報の記録は、人の脳以外では不可能であったし、人の脳に記憶されたわいせつ情報の外部的表現は、わいせつな身体的表現と同じく瞬時に消え去るものであり、わいせつ情報が伝達される人的範囲の点からも、半永久的に残存する物質化されたわいせつ情報(わいせつ物)との比較からも、風俗に対する侵害性が低いと考えられた。刑法174条の公然わいせつ罪の法定刑が刑法175条のそれに比べて低いのは、おそらくこのような事情もあったのだと思う。このような意味において、刑法175条は、わいせつ情報が化体したわいせつ「物」の交付や展示を規制してきたのであった。それは、情報の記録・伝達についての技術的発展段階が低い時代の、現在から見ればかなり牧歌的な規制であった。

 インターネットの凄さは、情報が持たざるをえなかった物への依存性を解放した点にある。世界中のコンピュータが、通信回線や無線を通じて結合され、デジタルという単一の電気的・数学的形式に変換可能な限り、その内容を問わずあらゆる情報がネットワークという仮想空間を駆けめぐる。石や木に音や映像を記録することは、おそらく将来も不可能だろうが、ハードディスクには現実にそれらが記録され、わいせつも写真やビデオといった物理媒体を離れて、インターネットの中に存在している。

 そこで、従来のわいせつ物規制とのバランス論から、メディアの具体的な形態はわいせつ罪の本質には影響しないとして、わいせつ「情報」そのものの流通や伝達も刑法175条は規制するのだ[2]とする見解が主張された。しかし、圧倒的多数の学説や判例は、「物を規制する刑法175条」というコンセプトは堅持する[3]。わいせつ情報そのものが刑法175条の規制対象となるならば、刑法174条との区別が不可能になり、「物」という文言の解釈からも大きく逸脱することになるからである[4]。通説判例は、この点に関する限り現行刑法の解釈論としては正当である。したがって、サイバーポルノに刑法175条を適用しようとするならば、情報であるわいせつ画像データそのものではなく、物である(わいせつ画像データが記憶・蔵置された)サーバー・コンピュータないし(ハードディスクにおけるわいせつ情報の記憶個所である)ディスクアレイを「わいせつ物」とせざるをえない。そして、このような発想は、わいせつなフィルムやビデオをわいせつ物(図画)としてきた従来の通説判例と矛盾するものではない[5]。しかし、そうすると当然のことながら、サイバーポルノが蔵置されたサーバー・コンピュータじたいは移転しておらず、交付されていないのであるから、サイバーポルノの刑法175条における構成要件該当性については、もっぱら陳列行為があったのか否かだけが問題となる(公然性は明白である)。そして、判例および多数説は、サイバーポルノに公然陳列罪の適用を認める[6]。単純化すれば、風俗犯である刑法175条は、わいせつ物の内容たるわいせつを「見せる」犯罪類型であり、ハードディスクに固定化されたサイバーポルノがインターネットに接続されたパソコンのブラウザ(インターネット上の文字情報や画像・音声データなどを受信して再生するためのソフトウェア)によって「見える」というのがその根拠である[7]。しかし、私は、サイバーポルノが受信者において「見える」という、その「見え方」を改めて問題にしたいと思っている[8]。

(2)判例の状況

 現在までのサイバーポルノに関する主な裁判例としては、つぎのようなものがある[9]。

 「P-STATION事件」(横浜地川崎支判平成7年7月14日公刊物未登載)(パソコン通信を利用してわいせつな画像データを見せていた行為にわいせつ物公然陳列罪を認めた事例)、「MEDIA大阪事件」(京都簡裁略式命令平成7年11月21日公刊物未登載)(パソコン通信を利用してわいせつな画像データを見せていた行為にわいせつ物公然陳列罪を認めた事例)、「ベッコアメ事件」(東京地判平成8年4月22日判例タイムズ929号266頁)(インターネットのホームページにわいせつな画像データを掲載していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「モンキータワー事件」(札幌地判平成8年6月27日公刊物未登載)(パソコン通信を利用してわいせつな画像データを見せていた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「J-BOX事件」(大阪地判平成9年2月17日公刊物未登載)(インターネットのホームページに、FLMASKの入手先および使用方法とともにFLMASKを付したわいせつな画像データを掲載していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「アルファーネット事件」(前掲京都地判平成9年9月24日)、「岡山FLMASK事件」(岡山地判平成9年12月15日判例時報1641号158頁・判例タイムズ972号280頁)(インターネットのホームページに、FLMASKを付したわいせつな画像データを掲載していた行為について、FLMASKを付していても容易にそれが復元可能な場合はわいせつ性が認められ、また、陳列されたのはその画像データが記録されているハードディスクではなく画像データそのものであり、わいせつな情報そのものが「わいせつ図画・物」に該当するとして、わいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「山形海外送信事件」(山形地判平成10年3月20日公刊物未登載)(アメリカに設置されたサーバーにホームページを開設し、日本国内からそのホームページにわいせつな画像データを送信していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「大阪海外送信事件」(大阪地判平成11年2月23日公刊物未登載)(「山形海外送信事件」と同様に、アメリカに設置されたサーバーにホームページを開設し、日本国内からそのホームページにわいせつな画像データを送信していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「あまちゅあ・ふぉと・ぎゃらりー事件」(大阪地判平成11年3月19日公刊物未登載)(日本国内およびアメリカに設置されたサーバーにホームページを開設し、日本国内からそのホームページにわいせつな画像データ(一部マスク画像)を送信していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「東京海外送信事件」(東京地判平成11年3月29日公刊物未登載)(アメリカに設置されたサーバーにホームページを開設し、日本国内からそのホームページにわいせつな画像データ(マスク画像)を送信し、日本国内で会員を募り、ダイヤルQ2回線を使用していた行為にわいせつ図画公然陳列罪を認めた事例)、「フロンティア事件」(浦和地川越支判平成11年9月8日公刊物未登載)(パソコン通信を利用してわいせつな画像データを見せていた行為にわいせつ物公然陳列罪を認めた事例)。

 以上のように、サイバーポルノを流す行為については、裁判所はいずれもわいせつ物(図画)公然陳列罪の成立を認めている。しかし、インターネットを媒体とする場合とパソコン通信を媒体とする場合、さらにマスク(モザイク)処理された画像データの場合とでは、実は画像データの「見え方」がまったく異なるのである。以下では、わいせつ画像データの「可視性」が維持された状態での流通と、その「可視性」が失われた状態での流通に分けて考察したい。

(3)画像の「見え方」について

 a.画像データに可視性が維持されている場合

 インターネットを媒体としたサイバーポルノについて、画像データの可視性(マスクなし画像)が維持されたままで送信された事例は、「ベッコアメ事件」である。被告人は、個人でホームページを開設し、わいせつな画像をアップロードしていた。そこに掲載されていた画像は、すべて性器が露出された無修正のものであり、それが既存の印刷メディアであったとすれば問題なく刑法175条が適用されるようなケースであったと思われる。

 インターネットの場合、Internet ExplorerやNetscapeといったブラウザと呼ばれるソフトを使用してホームページに接続すれば、ディスプレイに画像が自動的に再生される。その技術的プロセスの概略はこうである。ユーザーがホームページの当該個所をマウスでクリックすると、サーバーに対して情報送信要求コマンドが送信され、サーバーでデータが無数の細かなパケット(「小包」)に分解され、ランダムに選択された回線を伝わってユーザーのパソコンに送られてくる。それらはユーザーのパソコンのハードディスクに蓄えられ、そこで再構築されてディスプレイに表示される。わいせつなジグソーパズルがいったんバラバラにされ、その一つひとつに宛名が付されて送付され、受取人において機械的に再現されると考えれば分かりやすい。ただ、このように画像を再生するプロセスは一定のルールに従って自動的になされているため、インターネットの場合は利用者にとっては表面的にはテレビ放送の受信と変わらないように感じられる[10]。

 ここで問題となるのは、次の3点である。

 第1に、わいせつ情報が化体された物が「わいせつ物」であるという伝統的な発想を維持すれば、インターネットの場合、わいせつ画像データが蔵置された「わいせつなサーバー」からユーザーのパソコンにわいせつデータが送信され、そこにわいせつデータのコピーが作成される。ユーザーが「見ている」のは、実はサーバーの「わいせつなハードディスク」ではなく、自分の「わいせつなハードディスク」なのである。つまり、この場合、わいせつ物は2個できたことになる。

 かつて、わいせつデータを有料で客の生テープにダビングしていた事案について、大阪地堺支判昭和54年6月22日刑月11巻6号584頁は、民法上の加工請負契約の理論を用いて、客の持参した生テープの所有権がいったん被告人に移り、被告人がそれをわいせつテープに加工して有償譲渡したとして、わいせつ物販売罪の成立を認めた。この事案では、一時的にせよテープという物の移動が見られるが、本件ではわいせつ画像データのみが通信回線によってコピーされているため、客のハードディスクが「加工請負契約」によってわいせつ物に加工されたとすることは無理がある[11]。

 さらに、情報についてはオリジナルとコピーは完全に同一であり、原理的に判別不可能であるから、上のような考え方はまったく意味がない。端的に、サーバーに蔵置されたわいせつ情報が送信されたと考えればよい[12]。しかし、陳列罪を認めようとするならば、解釈上はわいせつ「物」が陳列されたと解さざるをえないというジレンマが生じる。しかも、陳列された物をユーザーの「わいせつなハードディスク」とすると公然性に疑問が生じるから、陳列された物はサーバーの「わいせつなハードディスク」とせざるをえない。したがって、本判決が、「ユーザーが、直接閲覧するわいせつ画像は、本件の場合、ユーザー側のパソコンのハードディスクに一旦ダウンロードされ記憶された画像データに基づき、そのパソコン画面に表示されることになるとはいうものの、右ユーザー側パソコンの画像データと本件ハードディスクに記憶・蔵置された画像データとの間には、これらによって表示されるわいせつ画像につき同一性が認められるから、このようなわいせつ画像データが記憶・蔵置された本件ハードディスクが、前記ビデオテープと同様わいせつ物に該当するとした原判決の認定、判断に何ら誤りはな」い、とする点は、従来の議論の延長線上に位置するものであり、内在的には特に批判すべき点はない[13]。

 第2に、学説においては、このようなデータの送受信の技術的プロセスを踏まえた上で、ユーザーの再生閲覧行為をも陳列概念に含めることによってサーバーの「わいせつなハードディスク」について「陳列」があったとする見解がある。たとえば、堀内教授は、「性秩序あるいは性風俗という法益が侵害されるのは、サーバー上に蓄積、蔵置された画像データが利用者の画面上で再生されたときである。したがって、離隔犯的な構成に従えば、行為者の現実的な行為はサーバー上にわいせつな画像データを送信、蓄積、蔵置して、閲覧が可能なように設定する行為であるとしても、その行為が陳列行為として刑法上意味を有するのはわいせつな画像が画面上に再生され、閲覧に供された時点である」[14]とされる。また、山中教授も、「陳列は、人の五感に作用する形で、直接観覧しうる状態に置かなければならないから、ホームページにわいせつ情報をアップロードするだけでは、いまだ、観覧可能な状態とはいえない。現に何者かがアクセスし、自己のディスプレイ上に表出する必要がある。ディスプレイ上に表出されれば、現にそれを観覧する必要はない」。「『陳列』とは、行為者の行為のみによって尽きるものではなく、場合によっては、観覧可能な者の、予測しうる補助行為の介在があってはじめて、完結しうるものなのである」[15]とされる。さらに、「P-STATION事件」、「MEDIA大阪事件」、「モンキータワー事件」、「J-BOX事件」、「アルファーネット事件」、「岡山FLMASK事件」、「山形海外送信事件」、「大阪海外送信事件」などの裁判例では、再生閲覧の可能な状況を設定したことではなく、現にユーザーにおいて再生閲覧させたことをことさら強調するものがある。

 刑法175条にいう「陳列」とは、わいせつ物等を「観覧可能な状況に置くこと」である。この定義じたいにまったく異論はない。わいせつ物の内容が不特定多数の者によって認識可能な状況にあればよく、現実にそれを「見た」者がいたかどうかは犯罪の成否には関係しない(抽象的危険犯)から、「見る」者の現実の行為は不必要である。上記のような見解は、公然陳列に「陳列行為」のみならず、「陳列結果」も要求することになり、従来からの抽象的危険犯としての理解と矛盾するのではないか。正確には、上記の見解も現に「見た」ことまでを要求するものではないと解されるが、「見ようとする」行為が犯罪の成否に不可欠であるとするならば、たとえば、客室にわいせつビデオを流しているホテルがあったとして、その時間帯に現実に客室の誰もテレビのスイッチを入れていなければ、(わいせつ画像データが蔵置されたアクセス可能なサーバーに誰もアクセスしていない状態と同じであるから)公然陳列罪とならないことになるだろう。もしも、上記の見解がこのような結論を認めるならば、それは、「ポルノ映画を上映したが、観客が全員、映画が始まった時点から眠っていて誰も見ていなかったとしても、『公然陳列』である」[16]とするのとアンバランスな結論である。眠っていて「見ていない」という状態と、テレビのスイッチをオフにしていたので「見ていない」という状態は同じだからである。サーバー・コンピュータにわいせつ画像データがアップロードされた時点で、不特定多数のユーザーにとってアクセス可能な状態が設定されたのであるから、現実に誰もアクセスしていなくともその時点で公然陳列罪の成立を認める見解の方が、この点に関する限りは従来からの「陳列」の理解に沿う。「再生閲覧」をことさら強調する裁判例についても、それは現実に法益侵害が生じたという犯情の重さを強調するためであろう。抽象的危険犯は、危険の発生が処罰根拠であるが、さらに進んで法益侵害が現実化した場合を処罰範囲から除外するものではないからである[17]。したがって、この点に関する本判決の指摘は妥当と思われる。

 第3に、わいせつ画像データの表示過程が「自動化」されていれば、ハードディスクの情報についても「認識可能」として「陳列」を認めてよいとする見解がある。たとえば、佐久間教授は、「デジタル信号が通信回線を移動している状態はともかく、一旦ハードディスクなどの有体物に記録・固定された段階では、前述したビデオテープやCD-ROMなどと同様、わいせつ物と認定できるであろう。また、これらの媒体を再生・閲覧するプロセスが自動化されて、ごく簡単な操作で画像を呼び出すことが可能となった現在、実質的な見地からみて、そこに記録された内容を不特定多数人により聴取しうる状態が生じており、公然陳列があったといって差し支えない。けだし、わいせつ物頒布罪のような表現犯(Exhibitionistische Delikte oder Äußerungsdelikte)では、当該情報を取り扱う技術的手段が変化したとしても、そこに記録されている表現物の内容を、不特定多数の人間が容易に知り得たかどうかに左右されるからである(目的論的解釈)」とされる[18]。確かに刑法175条の保護法益は社会の善良な性風俗であり、それはわいせつを「見せる」ことによって侵害される。しかし、どのような「見せ方」をしたのかも、実行行為が構成要件要素である以上、構成要件該当性の判断にとっては重要なはずである。しかも、本件の事案に則していえば、インターネットのホームページに(マスク処理のされていない)わいせつ画像データをアップロードした場合には、ブラウザで「見える」が、本件のようなパソコン通信の場合は、わいせつ画像は直接「見えない」のである。この点については以下で改めて考察したい。

 b.画像データに「可視性」が失われている場合

 パソコン通信やマスク画像については、画像データの可視性が失われた状態でデータが送信される。「P-STATION事件」、「MEDIA大阪事件」、「モンキータワー事件」、「アルファーネット事件」、「フロンティア事件」の各事例が、パソコン通信を媒体とした事例であり、「J-BOX事件」、「岡山FLMASK事件」、「山形海外送信事件」、「大阪海外送信事件」、「あまちゅあ・ふぉと・ぎゃらりー事件」、「東京海外送信事件」の各事例が、マスク画像のケースである(事例によっては、マスク処理した画像をパソコン通信で流していたものもある)。

 最近では特定のパソコン通信ネットで使用可能な特別のソフトを使用することによって、インターネットと同様に画像データを画像としてそのまま「見る」ことができるが、パソコン通信のユーザーは一般には通常の通信ソフトを用いて(パソコン通信において情報を一元的に管理している)ホスト・コンピュータにアクセスすることになる。画像データは、たとえば「001.jpg」や「002.jpg」といったように、画像データであることを示す文字列で表示されている(「jpg」という表示はそのファイルが画像データであることを示す拡張子である)。その段階では、ユーザーはそれが画像データであることは推測できるが、どのような画像であるかはまったく分からない。「見る」ためには次のような手順を踏む必要がある。ファイルの文字列を通信ソフトにキーボードから打ち込む。すると、そのファイルがユーザーのパソコンにダウンロードされる。その画像データを「見る」ためには、別に画像ビューアと呼ばれる画像表示ソフトを起動させ、そのダウンロードしたデータを読み込ませる作業をしなければならない。そのような手順を経て初めてユーザーはわいせつ画像を「見る」ことができる状態にいたる。

 以上のようなプロセスは、まさにわいせつ画像データの送信であって、およそ陳列という行為とかけ離れている。テレビ放送の受信と同じともいえない。そのプロセスも自動化されているものではないから、この点に関する本判決の説明はまったく不十分である。これは、マスク処理されたわいせつ画像データを考えるとき、一層明確になる。

 パソコンにおける画像表示の仕組みは、いわゆる点画と呼ばれる手法である[19]。全体としての画像が無数の点(ドット)によって構成され、その一つひとつに色情報(光の三原色である赤緑青のそれぞれの値)が与えられている。マスク処理とは、このドットの色情報を一定の規則で修正することである。この修正は原則として可逆的であるから、そのマスクを復元(解除)できる場合もある。「J-BOX事件」、「岡山FLMASK事件」、「大阪海外送信事件」、「あまちゅあ・ふぉと・ぎゃらりー事件」、「東京海外送信事件」、「フロンティア事件」などにおいては、いずれも性器部分等にマスク処理が施されてはいたが、画像処理ソフトを使用すれば、そのマスクを解除できたことから問題となった。ここでは、それじたいでは直接わいせつ性を認識できないが、受信者が画像データを受信後に、一定の処理をすればわいせつ性が顕在化するもの(潜在的わいせつ性)も「わいせつ図画の陳列」といえるのかが問題となる。つまり、サーバーにはマスク処理された、外見上は何らわいせつでない画像が蔵置されているのである(画像の全面にマスク処理が施されていれば、何の画像かも判別できない)。多数説の論理に従えば、ユーザーが「見ている」のは、何らわいせつでないサーバー・コンピュータ(の画像)ということになる。

 潜在的わいせつ性を有する物を交付する行為について、頒布・販売罪が成立することについては異論はない。わいせつな写真をインクで塗りつぶし、それを除去する薬品と共に頒布・販売した場合には、問題なく頒布・販売罪が成立する。頒布・販売する時点において客体にわいせつ性が顕在化している必要はなく、受け取った者においてわいせつ性が容易に顕在化すればよいからである。公然陳列でも、客体に潜在的わいせつ性が認められることでたりる場合もある。わいせつ物にカバーを掛けて展示していても、それがその場で容易に除去できる状態ならば公然陳列罪が認められうる。公然陳列とは、不特定多数の者がわいせつを認識しうる状況を創り出すことだからである。

 しかし、マスク処理されたサイバーポルノは、カバーを掛けて展示されたわいせつな写真と同様に考えることはできない。サーバーにアップロードされたものは、復元可能な形でマスク処理された潜在的なわいせつ画像であっても、ユーザーは(カバーが掛けられたわいせつ物のように)アクセスと同時にマスクを復元することはできない。そのデータをサーバーから自己のパソコンに取り込み、別に起動させた画像処理ソフトにその画像データを読み込ませて、改めて一定の操作をしなければならない。弁護人側が主張した、「本件においては、典型的なわいせつ物公然陳列罪の特徴として認められる陳列と観覧の『同地性』や情報伝達の『同時性』がみられないから、同罪は成立しない」という主張はまったく正当である。裁判所は、「本件においては、被告人によって前記のとおり健全な性風俗が公然と侵害され得る状態が作出されている以上、陳列という要件は満たされているというべきであって、所論の『同地性』や『同時性』が、同罪成立のための必要不可欠な要件になるものと解することはできない」として、この主張を単純に退けているが、「健全な性風俗が公然と侵害され得る状態」は、わいせつ物の頒布・販売によっても生じることであるから、上のような説明は何ら「陳列」を根拠づける理由にはなりえないことは明らかである。つまり、本判決は、実態としてのデータの「頒布・販売」を不当に「陳列」と解しているのであって、その陳列概念は従来から理解されてきたそれよりも驚くほど広がっていることに注意する必要がある。頒布・販売概念と陳列概念の境界は、かなり曖昧になっているといわざるをえない。なお、名古屋高判昭和41年3月10日高刑集19巻2号106頁は、傍論ながら、わいせつな未現像フィルムについては頒布・販売罪は成立しても、公然陳列罪は成立しないとしている。わいせつな未現像フィルムは、潜在的にわいせつ性を帯びるものであり、交付された者において現像という一定の操作をすることによってわいせつ性が顕在化するのであるから、わいせつ物頒布・販売罪を認めることには何ら支障はない。しかし、未現像のわいせつフィルムをそのままの状態で公衆の面前に晒しても、まったく性風俗は侵害されないことはいうまでもないことである。マスク画像におけるわいせつの「見え方」は、この未現像のわいせつフィルムが頒布・販売された場合の「見え方」とまったく同じことなのである[20]。

 さらに、最近では「陳列」という概念で把握することが一層困難なケースも存在する。

 インターネットやパソコン通信の場合、「書庫化」といっていくつかのファイルを1つにまとめたり、ファイルを圧縮することによって、記憶媒体の容量を節約したり、通信時間を短縮することが行われている[21]。ダウンロードした圧縮ファイルを「解凍」することによって、受信者のハードディスクにオリジナルと同じファイルが復元される。そのようにしてはじめてファイルの内容を「見る」ことができる。さらに、最近は、書庫化の過程でパスワードの設定を可能とするソフトが多数あり、いわば複数のファイルに鍵をかけて梱包した状態でサーバーにアップロードされる場合が多い。この場合は、そのファイルをダウンロードしても、パスワードを知らない限り、梱包を解くことはできない[22]。つまり、パソコン通信やマスク画像の場合と同じように、受信者にはファイルの中身が「見えない」状態で送受信され、一定の手順を踏むことによって初めて内容が「見られる」状態になるのである。わいせつ画像データも可視性がまったく失われた状態でホームページに公開されている。その場で「見ることのできない」わいせつな内容のビデオテープを道端に並べるようなもので、これを「陳列」というにはかなりの無理がある。これが「陳列」ならば、可罰的な販売目的所持と不処罰の頒布目的所持について「公然性」がある限り、すべて公然陳列罪として処罰されることになってしまう。わいせつ物公然陳列罪が「抽象的危険犯であることから、『認識可能な状態』の作出を以って既遂とすることは理論的には適切であるが、潜在的わいせつ性が極めて複雑な過程、困難なプロセスを経なければ発現しない、記述のごとき例の場合にまで、抽象的危険の存在を認めることは、躊躇せざるを得ない」[23]との指摘は、まさにその通りだと思う[24]。

4 結語

 法は、その時々の社会的要請によって制定された、言語による規範である。刑法典にも、言葉で書かれた個々の条文の背後に、立法者が望ましいと考えた、あるべき社会のイメージが表現されている。わいせつのメディアがいかに変貌したとしても、わいせつが無節操に溢れる空間が決して望ましいわけではない。しかし、解釈学的議論としては、刑法的事実のすべてのことを刑法典の言葉に置きかえて、その意味的な限定性の中で刑法的思考を続けざるをえない。情報とメディアの一体性から解放されたサイバーポルノは、その一体性を前提に構成されている刑法175条の射程範囲をはるかに超えているものと考えざるをえないのである[25]。