刑法入門第5章

犯罪が認定されますと、原則として刑罰が科せられます。そこで、最後に刑罰について簡単に説明したいと思います。

現在、法律家の多くは、刑罰では犯罪者の主観的責任が問題となり、刑罰は法的な非難のひとつの表現であると考えています。

人間社会の基本的な制度を考えますと、犯罪についても個人の責任を追求していくことは、私は基本的には正しいと思います。しかし、現在、犯罪の認定と刑の宣告は公開の場でなされますが、刑の執行が一般の人びとの目に触れることはまずありません。犯罪が社会関係の中で生み出されるものであるにもかかわらず、犯罪者の個人的責任を抽象的に糾弾することで私たちは満足しているのかも知れません。誤解があるといけませんが、このことは、決して刑の執行を公開せよということではありません。犯罪の認定と処罰は必然的関係にたつものであるからこそ、犯罪に対する私たちの(社会的)責任が希薄化してはならない。私はこのように思います。

現行刑法が認めている刑罰は、財産刑としての罰金・科料・没収、拘禁刑としての懲役・禁錮・拘留、生命刑としての死刑の7種類だけです(刑法9条)。人道主義的な思想が普及するにつれて、刑罰の内容も整理され、現在のようなものになってきたわけです。さらに、現在でも死刑廃止論や懲役・禁錮の区別を廃止する自由刑一本化の議論など、刑罰の緩和・単純化の途上にあります。

財産刑

 財産刑には、独立に科すことのできる主刑としての罰金・科料と、独立に科すことのできない付加刑としての没収とがあります。罰金と科料とは一定額の金銭の剥奪を内容とする刑罰ですが、その区別は剥奪される金銭の額によります。つまり、罰金は1万円以上であり、1000円以上1万円未満の場合が科料です(刑法15条、17条)。没収は、偽造通貨とか殺人に用いられたピストル、賄賂や犯罪の対価などの物件の剥奪を目的としています(刑法19条)。ただし、これが、はたして刑罰であるのかどうかという点については問題があります。現在、犯罪統計書を見ますと、全確定裁判に占める罰金刑の割合が非常に多いことに驚かされます。だいたい全体の90数パーセントが罰金刑で処理されています。したがって、罰金刑は数の上から判断しても、非常に重要な刑罰であるといえます。

罰金刑については、従来から次のような問題が指摘されています。ひとつは、罰金刑における倫理的な感銘力の低下という問題であり、もうひとつは、罰金刑における不平等さの解消ということです。罰金刑も刑罰である以上、当該行為者に対して彼が行った行為の社会倫理的な否定的評価を知らせることが必要です。つまり、刑罰が科せられるほどの悪い行為を行ったのだということを、行為者に分からせなければなりません。ところが、最近では各種の行政法規が罰金刑に過度に依存する傾向がみられ、倫理的にはほとんど無色の行政法規違反の行為に罰金刑が多用化されるということで、これがまず罰金刑の倫理的な感銘力を低下させる原因となっています。さらに、現実に科せられている罰金刑の金額をみますと、大半が5万円以下の罰金です。このような金額の低さも、犯罪行為の社会的な否定的評価を示す数字として妥当であるのか、という疑問もあります。

刑罰の平等的適用という観点からすれば、同じ犯罪行為には同じ刑罰が科せられるべきです。たとえば、死刑では生命に軽重はないし、拘禁刑も1年という時間はだれにとっても1年です。しかし、罰金刑のように、行為者から一定額の金銭を剥奪するという場合には、その人の経済状態によって不平等が生じる可能性があります。同じ行為を行って、同じ5万円という罰金を科せられたとしても、年収1000万円の人と300万円の人とでは、その財産的苦痛に当然差があります。そのためにさまざまな工夫がなされていますが、この実質的な不平等さをどのように解消するのかという点が、罰金刑の最大の問題点であるといえます。

拘禁刑

 刑法は、拘禁刑として懲役・禁錮・拘留という三種類の刑罰を規定していますが、いずれも監獄や拘留場といった刑事施設への拘禁が刑罰の内容です。懲役の場合は、監獄への拘禁と作業に従事する義務があります(刑法12条)。1日8時間1週40時間の強制作業ですが、これはあくまでも刑罰の内容であるという考えから賃金は支払われていません。ただし、賞与金というわずかばかりのお金はもらえます(月平均3000円程度)。禁錮の場合には、作業に服する義務はなく、拘禁のみが刑罰の内容となっています(刑法13条)。しかし、現実には、禁錮受刑者のほとんどがみずから請願して作業についています。刑期の点については、懲役・禁錮では区別がなく、無期または1月以上15年以下の有期ですが、拘留は1月未満とされています。なお、無期というのは必ずしも終身刑という意味ではなく、仮釈放という制度によって10年を経過した段階で釈放される可能性があります。有期の場合には、刑期の3分の1を経過したことが必要です(刑法28条)。

右では監獄という言葉を用いましたが、現在では刑務所という言葉が一般化しています。しかし、受刑者に対する刑罰執行(行刑)を規律している法律として妥当しているのは、明治四一年に施行された監獄法という法律なのです。現在、この監獄法の改正をめぐって議論がなされています。そこでは、受刑者の処遇をどのような観点から行うのか、つまり、刑罰の最終目的を受刑者の改善・再社会化という観点にすえて行刑を構成するのが妥当かどうかという点が中心的な論点になっています。

死刑

 刑法は、その11条1項において、絞首して死刑を執行することを規定しています。死刑は、かつては刑罰の中心でありましたが、現在では「死滅しつつある刑罰である」といわれています。事実、わが国においても死刑の適用は次第に減少しており、殺人と強盗殺人に集中しています。

死刑判決は次第に減少しているわけですが、他方でわが国には現在約50名ほどの死刑囚がいることも事実です。この人たちは、人を殺め、重大な犯罪を犯し、その報いとして死刑判決を受けたわけですが、国家によって殺されるということが分かっていながら、その時期を知らされず、明日にでも突然命が断たれるかもしれないようなきわめて不安定な状態に置かれていることも事実です。

たしかに死刑は、懲役刑や禁錮刑、財産刑とは全く異質なものを含んでいる刑罰であるといえます。死刑について観念的な議論を展開することはたやすいことですが、しかし、死刑執行の現実や死刑囚の処遇を含めて、その実態についてはわたしたちはほとんど知らないというのが現状ではないでしょうか。

「さようなら」楠本は一同に向かって深く頭を下げた。その瞬間、所長が額に皺を寄せて保安課長に鋭い目くばせをした。保安課長が右手をあげて合図した。あらかじめ楠本の両側に待機していた看守が手錠をはめ腰にゆわくのと、もう一人が背後から白布で目隠しするのが同時だった。・・・・・・境の扉を看守が、焼却炉の蓋でもするように、音高く閉めた。いよいよだなと近木は思い、これからおこる情景を順におって想像しようとした。が、まだ何も考えぬうちに、グワンと鉄槌で建物を打ち毀すような大音響がした。その音が何だかあまり早くしたので、いまのは予行演習で、これからが本番だと思った。しかし、芝居でもはねたようにそれまで沈黙を守っていた人々が俄然ざわめき立ち、二人の所長と検事を先頭に動き出した。・・・・・・落下の速度を得たロープで頸骨が砕かれ、意識はすぐに失われるけれども、体はなおも生きようとして全力を尽くす。胸郭は何かを掴もうとまさぐり、脚は大地をもとめて伸縮する。おそらく落下と同時にしたのだろうが、手錠と靴が取り除かれていたため、手足の動きは一層なまなましく見えた。やがて筋肉の荒い動きがおさまり、四肢は躯幹と平行に垂れ、ぐっぐっと細かい痙攣をはじめた。前後左右に激しく揺れていたロープが一本の棒となって静止すると、縒りをもどしながらじわじわと回転しだす。顔がこちらを向いた。汗に濡れた蒼白い肌が。目が潰れたように引き攣り、開いた口から固い舌先がのぞいている。流涎の幾条かが顎に、切創からはみでた脂肪のように光っていた。そこには精神によって保たれていた表情の気品がかけらも無い。肉体の苦悶が、そのまま正直に、凝固しているだけだ。・・・・・・ついに脈が触れなくなったらしい。すばやく胸をはだけ、聴診器を押しつける。弱った心臓の最後の鼓動を聴こうとする。曽根原が頷いた。菅原部長がストップ・ウォッチを押した。 曽根原は階段上の所長たちと検事に一礼し、「九時四十九分二十秒、おわり ました。所要時間十四分十五秒」と声高に報告した。・・・

加賀乙彦「宣告」より

ご承知のように、死刑については廃止論存置論がさまざまな角度から主張を展開していますが、いずれも決定的な論拠を提示できないでいるのが現状です。「人命は地球よりも重い」という言葉があります。わたしたちが、「制度としての死刑」を肯定するならば、それはとりもなおさず「人命よりも重いものがある」ということを承認することではないでしょうか。なお最高裁は、死刑制度を合憲であると表明しています。